こんなん徒然草生えるわ

研究であったり、日記であったり、趣味であったり

ある人間と発作

例えば、十皿しか流れてこない回転寿司があるとする。手持ちのお金ではひと皿食べるのが精一杯だとして、あなたは何皿目で手を伸ばすだろうか。一皿目で好みのネタが来たからさっさと取ってしまう人もいれば、ギリギリまで粘った末に十皿目で妥協する人だっているだろう。この問題は、不確定な状況の中で自己の利益を最大化するための選択が如何に難しいかを確認させてくれる。

しかしその一方で、これは非常に贅沢な話だと思う。場合によっては「ここは本当に回転寿司なのか?」と首を傾げつつ何も流れてこないレーンを眺め続ける羽目になるのだから。

これは単なる例え話である。

本題に入ろう。

あるところに、定期的な発作に襲われる人がいた。

その発作に襲われると彼は、レーンの奥底を覗き込み、何か好きな寿司が流れてこないか確かめてしまうのである。

本来であれば、このような行動や考えに至ること自体がおかしい。なぜなら、彼は空腹のあまり既に食欲を失いかけており、そもそも自分が寿司を食べるためにその座席に座っていたかすら思い出せないのだ。しかし相手は発作なので、理屈などお構いなしなのである。

時間が経つにつれて寿司が流れてくる割合が少なくなるという話を彼の隣の席の客がしている。反対側の席では、いい寿司はすでにあらかた取られてしまった後だと愚痴をこぼしている。

いい加減席を立ってなにか別の食事を探してもいい頃合いだが、発作がある限り席を立つのは難しいだろう。

寿司は、今日も流れてこない。