こんなん徒然草生えるわ

研究であったり、日記であったり、趣味であったり

アル中の小説を読んだ

ここで言うアル中とは、中島らものことである。彼は関西人の物書きで、重度のアル中で、酒に酔って転んだ際に頭を打ったのが致命傷になって死んだ。

今回読んだのは彼の綴った「今夜、すべてのバーで」という題の一冊である。おそらくは父の趣味で実家には中島らもの著作が多く揃えられていたのだが、この本は見かけたことがなかったので、気になって読んでみることにした。

この小説の主人公の小島容(いたる)は、アルコールによる黄疸が原因で入院することになる。入院した病室は相部屋になっていて、彼は他の患者たちと交流しながら自らの過去、つまり彼がどういう経緯でアル中となったかを振り返ることになる。

主人公はアルコール依存症についての医学的・精神病理学的な資料をつまみに酒を飲むという、さながら溺れた水の中で浮き輪を膨らませるような奇癖を持っており、作中では彼の得た知識が披露される他、アルコール依存症が形成される社会的背景にも切り込んだ考察を行っている。苦しむ主人公とそれを形成する社会的な背景を交互に提示するプロットはかのドキュメンタリー映画スーパーサイズ・ミー」を彷彿とさせるが、あの映画はジャンクフードに縁のない主人公をポテトフライ漬けにする様子をカメラマンの立場から観察するのに対して、こちらは既に酒浸りになった主人公が回復していく様子を本人の視点から眺めることになるのが対照的である。

また、この小説には多様なキャラクターが登場する。主人公のかつての悪友で親友でもあった天童寺不二雄や、主人公と同じくアルコールで体を壊した中年男の福来益三、重い病を患っており学校に通うことのできない少年の綾瀬保などがその代表だ。特に自分が気に入ったのは主人公の主治医である赤河である。作中では歯に布を着せぬ物言いで主人公の病態を説明し、彼が戻れない分岐点、すなわち肝硬変の一歩手前まで来ていることを説明する役割を果たしている。赤河医師の医療者としての豊富な経験やそれに根ざす諦観と憤懣の入り混じった複雑な人間性は医療漫画「K2」に登場した医師である「相馬有朋」を彷彿とさせ(奇しくも、この人物の専門は肝移植である)、以降は赤河医師が出るたびに相馬医師の顔が自動的に思い浮かぶようになってしまった。

この小説の結末は、主人公が親友の妹で、かつ自らを叱咤激励してくれた存在である天童寺さやかに対して愛を告白する場面で締めくくられる。これはおそらく作中で言及されていたアルコール依存症を克服するための指針である「飲んで得られる報酬よりも飲まないことによって与えられる、もっと大きな何か」を踏まえたものだろう。詰まる所この物語は主人公がいつ、どこでも依存症が再発しうる危うさを認識しつつ、そこから抜け出す手立てを掴むというハッピーエンドで終わるのである。

 

しかしながら、この本が出版された1994年から僅か10年後の2004年に、この物語の筆者である中島らもは、酒に酔って飲食店の階段から転げ落ち、その際に負った脳挫傷によってこの世を去った。

作家論と作品論を混同する暴挙を承知した上で月並みな考察を綴るのだが、彼はこの本の内容に対し関西人としてあまりにも綺麗で残酷な「オチ」を付けてしまったように思えてならない。

その一方で、このようなある意味芸術的とも言える人生の幕の引き方に対して、作中の天童寺よしみは「立ち去っていく側は格好はいいわよ。(中略)思い出になっちゃえば、もう傷つくことも、人から笑われるような失敗をすることもない。(中略)死者は卑怯なのよ」と、きっぱりと否定的な態度を示している。私もこのメッセージに強く共感する一人である。そして登場人物に対してそのようなメッセージを託す気概があるのであれば、せめてあと20年ぐらいは長生きして、Twitterやブログ等に酒と薬で耄碌して見るに絶えなくなった文章でもアップロードしながら醜態を晒すのが責任だろうと、そう考えるのである。

 

(画像は書影である。帯に『全ての酒飲みに捧ぐ』とあるが、こんな一番悪い見本を捧げられても困る気がする)

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